映画『君たちはどう生きるか』の解釈学

主観性という焦点は像を歪める鏡である。

歴史がわれわれに属するのではなく、われわれが歴史に属するのである。…個人の自己反省は、歴史的生という閉ざされた回路のなかでの瞬時のきらめきにすぎない。それゆえに、個人が持つ先入見は、個人が下す判断よりもはるかにそのひとりの存在の歴史的現実となっているのである。

ハンス=ゲオルク・ガダマー 著/ 轡田收・三浦國泰 • 巻田悦郎 訳『真理と方法 : 哲学的解釈学の要綱』,法政大学出版局,2021年.

 映画『君たちはどう生きるか』は、このことを伝えていたような気がしてならない。
主人公は塔の中で様々な「世界」を経験する。それはまさに、人間が様々な所与の中で、規定されながら生きていることを表している。私たちは生まれおちた時から、その時代固有の社会や国家、規範のある世界に投げ込まれている。そうした世界との連関の中で生きる。
 最後の積み木をインコの王様がぶった斬るのは印象的だ。あれはニーチェの「神は死んだ」を想起した。マックス・ヴェーバー風に言えば、「脱魔術化」になる。
 人間の生活や思考様式を支配してた自然や神話的・宗教的世界観が崩壊し、それ以降は、個人が主体的に生きる意味を見出さないといけない世界=近代・現代社会(Moderne=モデルネ)に変わっていく。それは一方でしがらみや神のお告げみたいなものから解放されて自由だが、生きがいや倫理・規範を自分たちで見つけないといけない、しんどい世界でもある。だから現代は、主体性とか創造性とか、キャリアとか、個人の自律が重視される。
 だがそれも、自分が現代に生きるからであり、歴史の中で生きているから。その中で、人間は歴史や構造に対して、どうすればアナーキーに生きていけるのだろうか。